白河夜舟の備忘録

【白河夜船】実際には見ないのに、見たふりをすること― (引用:広辞苑)

自分のための記録です。思考や感情の変遷を、日記的メモ的にまとめています。
学生時代の記事は一部を除いて非公開にしています。
過去の自分は他人だと思っています。

ライブ的ライフ

※以下未推敲メモ

ライブやスポーツのように絵を描きたいと思っている、というか人生そのものをライブ的に進めていきたいとずっと思っている。余計な心配をしないで身体の反射だけで生きるような感覚、線形的に物事を進める、頭の中のイメージが勝手に身体の各部位から表出される、それでこそ人間だと思う。

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自分は圧倒的に勉強が得意(特に試験などのボーダーがあるもの)で恐らく失敗をしたことがないのだけど、練習が得意かと言われると怪しい。毎日勉強して試験に合格した経験はあっても、毎日練習をして勝ち負けを決めたり何かに認められるような経験をしたことがない、もといそういった境遇に置かれたことがない。しいていうなら中学と高校の部活がそうと言える気もするけど、正直誰にも負けたくないと思うほど練習もしてなかったし体格的にも最初から誰にも負けないほど上達できると思っていなかった。練習とは身体の使い方をパターン化させるものだと思うけど、その分を頭でカバーしてきたところがあまりに大きい。テレビゲームにおいては多少は練習するものの(例えばマリオカート直線ドリフトとか)、スマブラとかスプラもコンボは覚えないし対面を鍛えない、まっすぐな技術勝負ではなく心理戦に持ち込んで勝とうするところがある。それで8割9割のところまでは勝ち上がれるので、残り1割を詰めようとしない。ただこの残り1割を詰めようとすると最初から身体に覚えこませて頭の調子に左右されないことが必須で、それには膨大な時間と労力をかけることは避けられない。器用貧乏は100点をとれない。

たとえばこういった文章を書くことについてもそうで、器用というよりも話の組み立て方を身体でわかっていると(使っているのは実際頭なんだけど、)最初から最後までシームレスに書き連ねられると信じているところがある、実際それが可能かどうかは定かではないけれど、漠然とそういったイメージで文章を組み立てられると、ものごとを考えることにもその能力が付随して人生の豊かさが10倍近く違うんだろうなと思う。

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作品をつくっている間は身体ではなく頭が作用しているので技術が上達しない。それほど上手にならなかったバレーボールの部活動時代から思っていたけれど、練習とは本番以外のただなんとなく遊んでいる時間の積み重ねで身につくと思っている。それには思考を付随させず身体の為すがままに委ねるということ。そう考えると制作はひたすらリソースを消費する行為に思える、技術が足りないと思ったときにいつ練習するか?この最適解は「10代までに身に着けろ」が今のところ有力なんだけど、長い人生なのでまだ諦めたくないな、ライブ的ライフ。